島田虎之助の墓所(境内・墓所のご案内)

浄土宗 普照山受光院

境内・墓所

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境内へ

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浅草の真ん中に、静かな時間があります

正定寺は、浅草の町なかにございます。にぎやかな通りから一本入り、門を入っていただくと、二本の桜が目に入ります。奥へ進めば、鯉の泳ぐ小さな池。ビルに囲まれたささやかな境内ですが、ここだけは時間の流れ方が少し違うように思います。

そして墓所には、幕末から明治にかけて名を残した人々が眠っております。剣に生きた者、鏝に生きた者、筆に生きた者。歩んだ道はそれぞれですが、いずれも一芸を極めた人たちでした。

お参りの方も、散策の途中に立ち寄られた方も、どうぞご遠慮なくお入りください。

境内めぐり

THE PRECINCTS

境内を進んで

正定寺 境内の夫婦の桜(ソメイヨシノ二本)
春の夫婦桜 ── 二本が同じ頃に咲きそろいます

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夫婦の桜

めおとのさくら

門を入ってすぐ、塀ぎわにソメイヨシノが二本、寄り添うように立っております。当山では古くから「夫婦の桜」と呼びならわしてまいりました。

いつ、どなたが呼び始めたのかは伝わっておりません。先代から、そのまた先代から、ただそう呼ばれてきた木です。住職も、幼い頃に祖母からそう教わりました。

春になりますと、二本がほとんど同じ時期に咲きそろい、境内を淡く覆います。近隣の方が写真を撮りにいらっしゃることもございます。どうぞご自由にご覧ください。

正定寺 境内の池と六匹の鯉
境内の池 ── 椿の向こうに、六匹の鯉がおります

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鯉の池

こいのいけ

桜を過ぎて境内を進んでいただきますと、玄関の手前に小さな池がございます。いつ頃からあるものかは分かりませんが、少なくとも住職が子どもの頃には、すでにここにありました。

鯉は六匹。この数には、ささやかな由来がございます。

六匹の理由
九星気学の「六白(ろっぱく)」にちなんで、六匹と決めております。深い意味があるわけではございませんが、代々そうしてまいりました。数えていただくと、たしかに六匹おります。
正定寺 本堂
本堂

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本堂

ほんどう

ご本尊は阿弥陀如来をお祀りしております。日々のおつとめ、ご法要はこちらで営まれます。

建物は現代的なつくりで、いわゆる古刹らしい佇まいではございません。関東大震災と戦災を経て、この町の寺はいずれも姿を変えました。それでも、お念仏の声がこの地に絶えることはありませんでした。

お参りをご希望の方は、どうぞお声掛けください。

墓所のご案内

THE GRAVES

ご見学は、ご自由に

剣に生き、鏝に生き、
筆に生きた人々が眠ります。

正定寺の墓所は、どなたでもご自由にお参り・ご見学いただけます。事前のご連絡やお申し込みは必要ございません。散策の途中にふらりとお立ち寄りいただいて構いません。

ただし、団体でお越しになる場合や、取材・撮影をご希望の場合は、一度お電話でご一報いただけますと助かります。ご法要と重なりますと、静かにお参りいただけないことがあるためです。

墓所は檀信徒の皆様の眠る場所でもございます。他家のお墓の撮影はお控えいただき、お参りの方のご迷惑にならぬよう、静かにお過ごしくださいますようお願い申し上げます。

幕末の剣豪 ── 台東区登録文化財

島田虎之助

しまだ とらのすけ

文化11年(1814)─ 嘉永5年(1852) 享年39

其れ剣は心なり。
心正しからざれば、剣又正しからず。
すべからく剣を学ばんと欲する者は、
まず心より学べ。島田虎之助の言葉として伝わる

島田虎之助の墓(正面に「嶋田虎之助墓」と刻まれる)

豊前中津に生まれて

文化11年(1814)、豊前中津藩士・島田市郎右衛門親房の子として生まれました。諱を直親、号を峴山(けんざん)といいます。

十歳の頃から藩の剣術師範・堀十郎左衛門の道場に通い、外也一刀流を学びます。十五歳頃には藩内に相手になる者がいなくなるほどに上達し、十六歳で九州一円を武者修行して名声をあげました。

この頃、日田の広瀬淡窓や、筑前の高僧・仙厓義梵のもとで学問を修めたと伝えられます。剣の腕を磨くかたわら、儒教と禅を学んでいたわけです。のちに彼が「剣は心なり」と語ったのは、この時期の学びと無縁ではないのでしょう。

江戸まで、七年

天保2年(1831)、江戸を目指して中津を発ちます。ところが、江戸にその姿を現したのは、それから七年も後のことでした。

道中の下関で、長門屋嘉兵衛という造り酒屋に寄食するうち、嘉兵衛の娘と相愛となり、菊という女の子が生まれます。また、近江水口藩に仕えていた同郷の儒者・中村栗園のもとで漢学を学んでもいました。まっすぐには進まぬ道のりでしたが、その七年が、のちの虎之助をかたちづくったようにも思われます。

男谷道場への入門 ── 一本を取らせてもらった話

天保9年(1838)、ようやく江戸に着いた虎之助は、当時「日本随一」と称された男谷信友に試合を申し込みます。男谷はあっさりとこれを受け、三本勝負のうち一本を虎之助に取らせました。

勢いづいた虎之助は、続いて井上伝兵衛の道場へ挑みます。井上は男谷と同じ直心影流藤川派の「三羽烏」とも称された強豪で、手加減なしに虎之助を打ち据えました。虎之助が入門を申し込むと、井上は男谷への入門を勧めます。

虎之助は答えました。「亀沢町ではもう手合わせ願いましたが、評判ほどのことはありませんでした」と。井上はにやりとして、君の観察は甘い、あの方の技量はどこまで強いか底が知れない、君は軽くあしらわれて花を持たせてもらっただけだ、もう一度行ってみろ──そう言って、紹介状を書いてくれたといいます。

虎之助は言われた通りに男谷道場を再訪し、謝って弟子入りしました。一説には、このとき再び立ち合ったところ、男谷の眼光に圧倒され、道場の隅に追い込まれて平伏するほかなかったとも伝わります。

浅草に道場を構える

男谷の内弟子となった虎之助の上達は目覚ましく、一年あまりで師範免許を受け、男谷道場の師範代を務めるまでになります。その傍ら鈴木清兵衛の道場にも通い、起倒流柔術を学びました。

この鈴木道場で相弟子となったのが、若き日の勝麟太郎──のちの勝海舟です。この縁により、虎之助が自分の道場を開いたのち、勝は男谷の紹介で虎之助に入門することになります。

天保14年(1843)、奥羽への武者修行を終えた虎之助は、浅草新堀に道場を開きました。当山からほど近い一帯です。道場では兄の島田小太郎友親が師範代を務めました。同じ頃、松平忠敬(忍藩主)の出入り師範として二十人扶持の俸禄を得ています。下関で生まれた娘・菊は、松平忠敬の家臣に嫁ぎました。

男谷信友、大石進とならび「幕末の三剣士」と称され、直心影流島田派を名乗りました。

正定寺に眠る

嘉永5年(1852)9月16日、病により没しました。三十九歳という若さでした。

遺骸は当山に葬られ、墓碑の銘文は師・男谷信友(精一郎)によるものです。そこには、「余、哀歎ほとんど一臂を失うがごとし」——私は嘆き悲しみ、まるで片腕を失ったようだ——と刻まれています。当代随一と称された剣客が、二十五歳も年下の弟子の死を、これほどの言葉で悼んだのです。剣で結ばれた師弟が、石の上でもう一度向き合っているようで、この墓の前に立つたび、思うところがございます。

お墓は台東区の登録文化財となっております。どうぞお参りください。

年譜

  • 文化11年(1814)豊前中津藩士・島田市郎右衛門親房の子として生まれる
  • 文政6年頃(1823頃)十歳頃、藩の剣術師範・堀十郎左衛門に外也一刀流を学ぶ
  • 文政12年頃(1829頃)十六歳、九州一円を武者修行。広瀬淡窓・仙厓義梵に学ぶ
  • 天保2年(1831)江戸を目指して中津を発つ。下関に長く滞在
  • 天保9年(1838)江戸に到り、男谷信友の内弟子となる
  • 天保14年(1843)浅草新堀に道場を開く。勝麟太郎(海舟)が入門
  • 嘉永5年(1852)9月16日、三十九歳で病没。当山に葬られる
島田虎之助の墓 正面
島田虎之助の墓
島田虎之助 墓碑銘(男谷信友の撰文)
墓碑銘 ── 師・男谷信友の撰文
台東区教育委員会による「島田虎之助の墓」説明板
台東区教育委員会の説明板

鏝絵の名工 ── 台東区登録文化財

入江長八

いりえ ちょうはち / 通称「伊豆の長八」

文化12年(1815)─ 明治22年(1889) 享年75

漆喰と鏝だけで、
絵を描いた人がおりました。左官の仕事を、美術へと押し上げた名工

入江長八の墓と墓誌(入江家先祖の墓の右手に墓誌が建つ)

伊豆松崎の農家に生まれて

文化12年(1815)、伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に、貧しい農家の長男として生まれました。

幼い頃から左官の道に入り、腕を磨きました。松崎は駿河湾から強い風が吹き込む土地で、家を守るために左官職人の多い地域でした。長八はその当時から、手先の器用さで知られていたといいます。

江戸へ、そして絵を学ぶ

天保元年(1830)、江戸へ出て、左官棟梁・源太郎の弟子となります。ここからが、長八という人の面白いところです。

彼は左官の腕を磨くだけでは満足しませんでした。修行のかたわら狩野派の画法を学び、「乾道(けんどう)」と号します。左官職人が絵を学ぶ──その組み合わせから生まれたのが、あの鏝絵でした。

漆喰を塗った上に、鏝で絵を描き出す。これを鏝絵といい、石灰絵とも呼ばれます。壁を塗るための道具と材料が、そのまま絵画の道具になったのです。『異本日本絵類考』は長八を「最古の技に長ぜり」と記し、その花や鳥獣を描く技を「世人以て絶妙の技となす」と評しました。晩年には仏教学も学んで「天佑(てんゆう)」と号したと伝わります。

故郷の寺への恩返し ── 浄感寺の天井

弘化2年(1845)、三十一歳になった長八は、弟子を連れて故郷へ戻ります。自分が学んだ寺子屋、浄感寺の再建に加わるためでした。

このとき天井に描いた『雲龍』、欄間を飾る『飛天の像』は、いずれも傑作とされ、現在は静岡県指定有形文化財となっています。浄感寺の本堂は現在「長八記念館」として公開されており、これらの作品を実際に見ることができます。

晩年、明治13年(1880)にも六十五歳で再び故郷を訪れ、岩科学校などで制作にあたりました。重要文化財である岩科学校「鶴の間」の『千羽鶴図』は、長八の代表作として知られています。

浅草との縁

長八は、浅草寺観音堂や目黒の祐天寺をはじめ、江戸・東京の各所に作品を残しました。浅草での見世物が評判を呼んだこともあり、この町とは深い縁がございました。

しかし惜しむらくは、江戸から東京へと町が姿を変えていく中で、それらの多くが失われてしまいました。震災と戦災を経た浅草に、長八の手がけた壁は、もうほとんど残っておりません。故郷の松崎に作品が守られてきた一方で、彼が最も活躍した町からは、その記憶が薄れていったのです。

二つの墓

明治22年(1889)10月8日、深川にて七十八歳で亡くなりました。

長八が「入江」を名乗るのは、明治3年(1870)に名字が許されてからのことです。はじめは「上田」と名乗り、のちに養家である深川播磨屋の縁から「入江」と改姓しました。

没後、遺骨は当山に埋葬され、同時に故郷・松崎の浄感寺にも分骨されました。長八の墓は、浅草の正定寺と、伊豆松崎の浄感寺の二箇所にございます。当山の墓石には「入江家先祖の墓」と刻まれ、台石には養家の家号「深川播磨屋」が刻まれています。

江戸へ出て腕一本で名を成した人が、最後に故郷の寺と、働いた町の寺と、その両方に分けて眠ることを選んだ。そのことを思いながら、この墓の前に立っていただけましたら幸いです。

お墓は台東区の登録文化財となっております。

年譜

  • 文化12年(1815)8月5日、伊豆国松崎に生まれる
  • 天保元年(1830)江戸へ出て、左官棟梁・源太郎の弟子となる。狩野派の画法も学ぶ
  • 弘化2年(1845)故郷・浄感寺の再建に加わり『雲龍』『飛天の像』を制作
  • 明治3年(1870)名字を許され、のちに「入江」と改姓
  • 明治13年(1880)六十五歳で再び帰郷。岩科学校などで制作
  • 明治22年(1889)10月8日、深川にて七十八歳で没。当山に葬られ、浄感寺へ分骨
  • 昭和61年(1986)故郷の松崎町に「伊豆の長八美術館」が開館
入江家先祖の墓と入江長八の墓誌
入江家の墓(左)と長八の墓誌(右)
入江長八の墓誌(戒名 光照院御誉天祐乾道禅士)
墓誌 ── 戒名と事績が刻まれています
台東区教育委員会による「伊豆長八の墓」説明板
台東区教育委員会の説明板

明治の戯作者・新聞人

高畠藍泉

たかばたけ らんせん / 三世 瀬川如皐

当山の墓所には、明治の戯作者・新聞人として活躍した高畠藍泉も眠っております。三世 瀬川如皐(せがわ じょこう)の名でも知られる人物です。

剣の島田虎之助、鏝の入江長八とならび、こちらは筆に生きた人でした。江戸から明治へと移りゆく時代のただ中で、文章によって身を立てた一人です。

お墓のご案内

FAMILY GRAVES

正定寺のお墓について

正定寺では、代々受け継いでいただく一般のお墓もご用意しております。日当たりや広さの異なるいくつかの区画がございますので、ご希望に合わせてお選びいただけます。

後継ぎのご心配がない方には、境内の永代供養塔「月の光」もございます。ご事情に合わせて、お選びいただけます。

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